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岩崎城

戦国時代に様々な戦いの舞台となった城「岩崎城」

岩崎城は、戦国時代初期の平山城で、享禄2年(1529年)に織田信長の父である信秀の属将荒川頼宗(あらかわよりむね)が守っていましたが、松平清康(まつだいらきよやす)(徳川家康の祖父)方に奪われ、その後、一説に天文5年頃に(1536年頃)丹羽氏清(にわうじきよ)が本郷城から移ったと言われています。天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの際に、後方撹乱(かくらん)を狙った羽柴方の池田恒興隊を阻止して、城代丹羽氏重(にわうじしげ)以下300余名が討ち死にしたことが伝えられています。現在は岩崎城址公園として整備され、模擬天守が建てられています。岩崎城歴史記念館には、日進市の歴史を伝える品々が展示されています。

岩崎城歴史記念館は日進市の歴史・貴重な文化財・岩崎城に関わる歴史のお話など来館者に正しく理解していただくために作られたものです。

学芸員による展示の説明なども行っておりますので、お気軽に受付へ声をおかけ下さい。

岩崎城が城として機能していた戦国時代頃には、ここから一望すれば城の周囲の様子が良く分かり、敵から城を守るのに役立ちました。

岩崎城の櫓台(やぐらだい)は土橋を見下ろせる位置にあり、土橋からの敵の侵入を警戒するためにもこの場所に造られました。

水琴窟(すいきんくつ)とは、手や口を清める「手水鉢(ちょうずばち)」や「つくばい(茶道などに使用するために趣を加えた手水鉢)」近くにつりがね状の甕(かめ)を伏せて地中に埋めたものです。

上部の小さな穴から水を落とすと水滴の音が甕(かめ)の内部に反響し、妙音(みょうおん)を出す仕掛けになっています。

岩崎城は丘陵の突端部に立地し、空堀(箱掘)によりいくつかの郭(くるわ)に分けられます。岩崎城では二の丸(土橋)と本丸の間に土橋がかけられていました。

櫓台(やぐらだい)は土橋を上から監視し、いち早く侵入者を発見して守ることのできる位置に設置されています。

岩崎城跡発掘調査の際、偶然にも土塁(どるい)の下から発見されました。

出土品である須恵器の特徴などから6世紀前葉に造られたと推定される円墳です。遺存状態がよくなかったため、周辺地域の後期群集墳を参考に模式的に横穴式石室を復元しました。

明治39年頃、このあたりで火の玉が目撃され、岩崎城で討ち死にした兵たちがまだ成仏できていないと地元住民の間で噂になり、明治40(1907)年に妙仙寺の隆城和尚が職人に頼んで立石に文字を刻み込み、供養しました。

それ以降、落城の日である4月9日に慰霊祭が行われるようになり、現在も続けられています。

岩崎城築城当初から水堀ではなく空堀でした。発掘調査から築城初期(15世紀末~16世紀前葉)の段階では薬研堀が掘り込まれていたことが分かっています。

現在もその遺構が残されており、当時の様子が伺えます。櫓台(やぐらだい)から遊歩道が続いておりますので、一部の空掘の中を散歩することができます。
奥に見えるのが土橋です。

岩崎城跡の建物の遺構のなかで唯一礎石を有した建物で、本丸東南の張り出し部分から発見されました。

縦横共に一間(約181cm)間隔ごとに五つの礎石が配置され、四間×四間の建物であったことが分かります。

明治43年(1910)4月9日旧尾張藩士中村修・丹羽精五郎を発起人に丹羽忠道の文章で綴られ、櫓台(やぐらだい)に建てられた石碑です。

題字『忠義を表す』は最後の将軍徳川慶喜の書であり、徳川家康への忠義を表すという意味です。

基本情報

住所愛知県日進市岩崎町市場67
アクセス

【電車でお越しの場合】

名古屋駅から、地下鉄「星が丘」駅下車。名鉄バス「トヨタ博物館前」「五色園」行き約20分、「岩崎御岳口」下車徒歩5分。

【車でお越しの場合】

名古屋高速高針ICから国道302号を北へ5分、「高針橋東」交差点を右折し、県道217号線を東へ約15分、「岩崎」交差点を左折「岩崎城北」交差点を右折すぐ。


 

駐車場

無料 普通車20台・バス2台駐車可

営業時間

【定休日】月曜日(祝日の場合は開館)

 9:00~17:00(入館は16:30まで)

利用料金

無料

HP岩崎城

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。